昭和44年10月02日 朝の御理解



 御理解 第95節
 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 神を商法にしてはならんぞと、信心を商法にしてはならんぞと、宗教というものは職業じゃないと、と云う事だと思うです。この95節は、取次ぎ者というよりも、取次ぎにお使い回しを頂く者に対する、まぁ厳しいこれは御教えだと思うんですけれども、一生懸命の思いで信心をすると、ということをですから、これは取次ぎ者だけの事ではない、取次ぎ者だけが一生懸命信心を身に付けるという様な、信心させて貰う信奉者も全部が一生懸命で信心を身に付けなければなりません。
 そういう意味で是はいわゆる先生に対する御理解だけではない、皆が頂かなければならんと、まぁ云う様に思います。最近職業化した教会職業化した宗教家と、もう是はそれはもう当たり前の事だと言われるされております。この頃テレビで東京のお坊さん達の、と何か記者団と一問一答の座談会の様なのがテレビであってました。そちらには矢張り頼み寺と言った様なものを持たない例えばこちらの西の方から、東京へ行った人達が沢山おる、徳に団地関係なんかに住んでおる人達は、その頼み寺がない訳です。
 田舎に帰ればあるけれどで、そこで例えば先祖の供養をしたり、または亡くなった時にまぁその比較的近くなお寺さんの坊さんに来て貰うと、してお葬式をして貰うと言った様な事がある訳なんです。それでそのこちらが矢張りそのお葬式ならお葬式の、いわゆる定価表というのを作っとかんとですね。もう唯お布施だけに頼っとたら、今の坊主はもう食い上げですと、だからもう道のりが決めてある、そりゃそうでしょうね。
 皆自家用車で坊さんが行かれるのに、車代も足らんごたる事でお礼と云う様な人が中にはある。それで、もう今ちゃんと決めて御座います、何時の所に行く時には、車代が幾ら、ぼん様が2人行かれるなら幾ら、お葬式の定価で、幾ら幾らという風に、こう決めてあります。しかし、是はもう当然の事だと、まぁ言う風にそれは語る者も、聞く者もそれをそう言っておりましたですね、当たり前だと。
 でこの頃、こういう諸物価が高くなったから、そのいわゆる葬式料も高くしなければ、まぁ商売にならないと云う様な話を、言わば宗教家がする様な時代になっておる。いわゆる、これは神を商法にしておる、信心を商法にしておる人間、宗教家だって人間だから、食べて行かんならん。それはもう当たり前の事だと云う事になる。そこで人が助かる事の出来ない宗教に出してしまって行くのではないかと思います。で、
 それはそんなら、これはまぁ仏教の、その先日たまたまテレビを見た時に、そういう風な事があっとってから、仏教の例をとりましたけれども、これは仏教に限った事ではありません。もう殆どの宗教がそう云う事になっとるのじゃないかと、こう思います。教団でも、若い先生方ん中に、教会の先生たちも給料制にせよ、本部から給料を払えと言った様な事を、おくめんもなく話して居られる人達がある位です。
 神を商法にしてはならんと、この95節は、まぁ色々に頂く訳ですけれども、私は今日は徳に神を商法にしてはならんと、信心を言わば商法にしてはならんと、それはもう職業じゃない、是は人が助かると云う事人を助けると云う事、ね。お金が言わばお礼が少ながろうが多かろうが、お金をそれに対する謝礼を、例えばもし頂かなっても例えばお葬式をしてくれというなら、お葬式をさせて頂くのが宗教家の使命だと。
 いわゆるそういう使命感というものが、最近の宗教家にはなくなったと。それは私は今日は宗教家と云う事ではなくて、信心をさして頂いとるお互いもですね、それはどう云う事かというと、そうすると是はもう大変な事なんですね。神を商法にしてはならんと云う事になると。生きるが為に生きるが為にその職業を選んだと。是はまぁ普通の人ならそれもまぁ許されるかも知れませんけれども、宗教家にはそれは許されない。
 私は今日も御神前にでらせて頂きましたら、もう死んでおると云う様な感じですね、紋付袴を着けた人がこうやっても倒れて死んでおる所頂いた。それをですね、槍でこあの突きよる、是じゃもう応えも何もないし、又はもう槍で突く必要もない、もう死んでるんだもん。そういう姿を頂いた。はぁ大変な是は厳しい事だと思うた、それから霊神様の前にでらして頂いて、ご祈念に掛りましたら私の信心に響いて来る。
 是は心眼じゃない、信心に響いて来る。それはあの何年か前頃に流行りました、流行歌がね有ますが「松の木ばかりが松じゃない」という唄がありますでしょう「あなた待つのも松のうち」て、何とかはていう唄ですよね、その唄が響いて来るんです。今ご神前で頂いた事、今霊神様の前で私の信心に響いて来る事、それと是とを繋ぎ合わせて、是は又厳しい事だなぁと思いました。
 私共はここでは、松の信心もう松と云う事を、そのものを信心と言う風に頂きますよね、桂松平先生、石橋松次郎先生、安武松太郎先生とね、桂松平先生と、是はもう私の手続き、又は同じ九州のお道の上での、大徳者ばかりです。だからその方達の信心に、あやかりたい、そういう信心を頂きたいと、こういつも思っておる。ですから、例えばその松の字を見ただけでも、心がシャンとすると云う様な感じがする。
 ご理解で何時もそう頂きますから、松の木ばかりが松じゃないと、この3人の先生方の場合なんかは。いわゆる松、この松の木の松の字が書いてある、だから桂松平先生、松太郎先生、松平先生、松次郎先生、だけが信心じゃぁないち。あなた待つのも松の内だとこう、御霊様が私にそう言い掛けて御座ると云う事はね、あなたを待ってると云う事なんです。あなたが死なれる事を待ってると云う事なんです。御霊様が私の死ぬる事を待って御座ると云う事なんです。
 御霊様たちが、皆さんが死ぬる事を待って御座ると云う事なんです。それは例えばお迎えに来て御座るという意味ではなくてです。私共がいわゆる、この自分というものがこう、空しゅうなって行く、自分を空しゅうして行く事が信心だと、日に日に生きるが信心なりと教えられるが、日に日に生きると云う事は、日に日に自分と言うものが無くなって行く事だ。だから日に日に誕生するのだ。
 日に日に産まれるのだと言う風に私は説きますね、日に日に生きると云う事は即、日に日に死ぬる事なんだ、だからこそ日に日がさらな、いわば生き方、只今誕生致しましたと、言う私、それには自分というものを空しゅうして行く、空しゅうして行く、無くして行く、それが死ぬる事なんだ。と言う風にまぁ説きます。だからそういう筆法からまいりますとです、神様が言わば御霊様が私を待って下さってある、それは大坪総一郎が空しゅうなる、大坪総一郎が死ぬる事を待っておいでなのだと。
 そこで一生懸命と云う事は死んだ気でと云う事だと云う事になる。辛抱がでけん所をです、死んだ気になりゃ楽なんです。どういう誘惑があってもです、死んだ気でありゃ誘惑に乗る事はありません。ですからこの95節というのは、もう大変に、今日は95節の、例えば是を手前の所で申しますとですね、あのよく、私はもう信心さして頂いとりますけんでと云う事を宣伝する。
 その宣伝する事はいいですけども、自分の商売の為に宣伝する、私の方はもう金光様の信心しよるけんで、もう暴利はむさぼりませ、もう何処よりも私の方が安すうしておりますと、ためにそのいう、神を商法に使う。私共も過去においては、そういう体験を持っておる。何時も御神米をまぁそれは勿論、御神米を外されないというのはそうでしたけれども、洋服のここん所にちょっと何時も入れてある。
 赤やら紫のふくさに包んだのがここにある、ちらちら見える、人が尋ねんならんごたる風にちゃんと入れてある。それは何ですかと、是は御神米金光様の、私は金光様の信心するけんで決して、しらごつと言わんばのち、私はもう金光様の信心するけん、絶対もう他所よりか安売るち、そして高こう売りよる(笑い)して、すらごつばっかり言いよる、もう神様を商法に使っておる。
 私共本当にそういう、まぁ手を使ったちゆうと大変可笑しいですけどもですね、そん為に持って歩きよるとじゃないです、けどもやっぱり、神様頂いとくあるけれども、そういう時には商法に使っておる訳です。私共が福岡で商売をする時には、全然誰も知らんのですから、矢張り信用して貰う為には、私は金光様の信者である事を、あの人は金光様の信心さしちゃるげなけん、そげん悪か人じゃなかろという風に。
 向こうも信用してくれる訳ですよ。だからそう云う様な事もです、神を商法に使うてはならんと云う事になりましょうけども、私はもう、今日のこの神を商法にしてはならんと云う事は、もうギリギリの、一番難しい意味合いにだから、一番有難い、もう絶対にお徳が受けられる、絶対のおかげが受けられる意味合いにおいての95節を、今日皆さんに聞いて頂いておる訳ですよね。
 死んだ気になっておると云う事はですね、もう実に自分が楽ですよ、そして今朝も3時過ぎに目が覚めました。それで洗顔して着物を着けさせて頂いた、ところが足袋がない、それから丁度愛子が来ましたから、足袋を出して貰った、「愛子ちゃん、足袋がないよ」ち、そしたら足袋を出してくれてあった、それで着物を着ようとしたら、今度は下着がないだからまた下着を、あの風呂場ん所の洗濯物を入れるタンスに入れて御座る、是だけは私は知っとりますから、自分で取りに行った。
 そういう時にですね、あの「どうして足袋をよせとかんか」と「どうして下着は、ちゃんと必ず新しいのを下に着る事が分かっとるのに、どうして休む時に、下着をちゃんと持って来とかんか、奉仕着と一緒にしとかんか」と、どうしてと云う事を言う、云う事がないですね、言う必要がないですね、死んだ気でおりますと、もう時間なのにどうしてお前は起きらんか、と云う事も要らんですね。
 むしろ私はもう最近、朝家内が目を覚まさんでおると、出来るだけ電気もパーと付けずに、小さいと付けてからします。それでも矢張り家内起きて来て、色々今日でもしてくれましたけど、なら自分で足袋を取りに行ったり、自分でこの下着を取りに行ったりした事に対してですたい、どうして前ん晩からしとかんかと云う事は要らん、もう其処ん所が淡淡として、あの肌着を取りに行ったり、足袋を取りに行ったりする事が出来る。たった些細な事ですけれどもね。
 あの自分を空しゅうしておる時には、それが平気、もう当たり前の事として出来るのですよ、食べ物一つ食べるでも、甘いと云う事を言う事も要らなければ、辛いと云う事も要らん、もう死んだ気になっておるのですから。神様が今日のご飯な硬かった柔かったと仰る筈ないです。それがもう当たり前の事として当たり前その不平も要らなければ、不足も要らないどうしてと云う事も要らない楽なんです。
 そこにですなら私の周囲が助かる、私が不平不足を言う文句ばっかり言い、そこに例えば私の周囲の者が助からない。私は、自分を空しゅうして行くと言うような稽古をですね、稽古を、只今私が申します様な、もう茶飯事の中にね、日常生活の中に、もう沢山あると思うんです。あげん頼んどったつに、どうしてしてくれんかち、言う事は要らんでしょうが、もう是はちゃんとせなん事は分かっとるじゃないか、なしせんか、文句も言う事は要らん、不足も言う事は要らん。
 そこにはです、なら文句を言う所には助かりは無いけれども、文句を言わんで済む所には、私も助かっとりゃあ、なら家内の場合、私と夫婦の場合であるなら、家内も助かっておる、私は信心とは、そう云う事を本気でね、稽古する事だと思うんです。今日は皆さんそういう意味でです、本当にあの一つ、昔はあの、ん「滅私奉公」なんて言葉がね、戦時中、自分というものは滅すると、自分というのは空しゅうするという意味なんです。そして、国の為に奉公すると言うような時に使われました「滅私奉公」。
 又は段々戦争が苛烈になってまいりましてから、もう普通の軍需工場なんかに、どんどんその、御用に行かなきゃならなかった。あぁゆう時には、「一日戦死」と言った様な言葉を使いましたね、戦地では兵隊さんが、それこそ命を的にして一生懸命、働いて下さってあるんだ、私共国民の為に、日本国の為に。だから銃後の者がですね、一日ぐらい戦死した積りでです。
 何もかにも投げ捨てて、お国の為の御用をさして貰うと云う事を、言った言葉ですね、「一日戦死」と、だから私共も、このですね、いわゆる滅私奉公がね、矢張り滅私奉虚とでも申しましょうか。自分を空しゅうして、そして道の為に働こうとこういう、そうしたらね、自分な何時も部の悪いところにおらにゃならんかと、こういうとですね、自分はそういう、自分を滅してしまっとるから。
 自分は一番下積みの、一番詰らんところにあるかというと、そうじゃないです。なら今言う桂松平先生だって、安武松太郎先生だって、石橋松次郎先生だって、いわゆる自分、自らを空しゅうして、人が助かる事の為に奉仕された、そしたらどう云う事ですか、当時の人達が、いわゆるその先生方を、それこそ生神様の様に言うたり、扱こうたりしたでしょうが、そんな尊い事に成って来るんです。
 家庭の中でもです是はもう絶対、今私、今朝からの話を致しました様にね、足袋はどけあるか、下着はどけあるか、寝とる家内を起してから出させる、以前はそうでしたけれど、それじゃ家内は助からない、けれどもです、私がそれを、もうまぁ別にその死んだ気でと言うような気持ちじゃなかったですけれどもです。結局自分を何時も空しゅうする事に、心掛けておりますから。
 それが寧ろ静かに、家内がおぞまんように、足袋を取りに行ったり、シャツを取りに行ったりする事が出来る。そこに家内も助かる、楽なら私もそのことが、もうどうした奴じゃろうかち思わんですむ。そういう例えば生き方がもし続くとするなら、もう絶対家内が私を大事にしてくれない筈がないです。子供が親を大事にしてくれない筈がないです。本当に親父たる者ですよ。
 自分をその大切にしようが足りない様な思い方、もう今後々段信心さして頂いて、それは反対に家内の方から言うても同じ事。お互いが大事にし合う為にはお互いが言わば、空しゅうなって行く稽古を一生懸命せんならん。そこからお互いが大事にし合う、尊び合う。いわゆる先日から頂く、本当の意味合いにおいての拝みあいと云う事が出来る。俺はこうやって一生懸命働いてるんだぞと。
 俺をもうちっと大事にせんかと、と云う様な事ではなくてです。どんなに働いておっても、ヘトヘトになっておっても、誰もかまい手がなかっても、お位牌さんがものを言いなさる筈はないのですから、矢張り死んだ気になると云う事は、その様に尊い事なんだ。神を商法にしてはならん、神を、此処ん所はだから、神を商法に、神を職業にしてはならん、信心を職業にしてはならん。
 私共が、例えば食わんが為に、生きんが為に、私がここに、例えば奉仕の生活をさして頂いておるとするならです、先程申しました、そのおばさん達の、その座談会のそれと、もう五十歩百歩である。お金が無からなきゃ、お供えをしなければお取次ぎしてあげません、お金が無からなきゃ、葬式はしてあげません、お金が無からなければ、結婚式はしてあげる訳にはいけませんというのじゃない、お金が無いからこうだと言や、結婚式でも、お葬式でも、人が助かる事の為に、私共が奉仕する。
 人が助かる事の為に。食わんが為に働くのじゃない、端が楽になる為に働くのだと。端が楽になる為に、自分の周囲が楽になる為に、自分の周囲が助かる事の為に、私は働くのだ、奉仕するのだ。人から例えばどの様に、それこそ槍、槍先で突かれる様な事があっても、こっちが生きておる、生きておるから、歯痒かったり、情けなかったり、辛かったりするわけなんです。
 ですから、こちらがこう死んでおりゃね、もう痛いもなかりゃ痒いもない平気でそこを通る事が出来る。厳しい事の様に御座いますけれども、本当にその気にならせて頂いたら、むしろ楽なんだ楽だけではない、そう云う事ではない、そこから自他共に助かって行く、いわゆる自分が助かって行ける。「死んだ気ではげめ勤めよ徳もつく、道も開ける、人も助かる」是は私が、一番修行の、まぁ激しい時分に頂いた、是は御教えです。借金でもう苦しみ、めげておった時代に頂いたんです。
 もうどげん考えたっちゃ、もうあまりの嘘が嘘になっとりますからね、借金の断りを申します様に。もうどげん考えたっちゃ今日は、あの人にはもう顔合わせられんと思うておる時に頂いた御教えです。死んだ気で励めと、死んだ気で勤めよと、教会には月次祭だから福岡からがお参りして来ておるけれども、教会に行くと、教会であの人に合わなきゃならん、どげん思うても、今日だけは御無礼して、もう大城までは帰って来とったけれど、大城から善導寺まで歩いて行く勇気がない。
 あの人に合わなならんと思うたら。それで、「月次祭が済んだ後から参りますから、今日だけはお許しください」ち言うてから、神様にお願いをした。そしたら神様が、「そんなら、本郷の教会へ参れ」と仰った。私は、本郷の教会と言う所に参った事がなかった。知らん。だから大城を通り超え、通り超えて本郷で下車して、神様に本郷の教会はどちらに行くだろうかと、お伺いさせて頂いたら。
 こちらへ行け、こちらへ行けと言って、はぁ本郷の教会の方を教えて下さっておるなと思って、行きよった所が、大きな堀が幾つもあって、向こうが行き詰まってしまった。
 で又そこで神様に、ご神意を頂いたら、神様が今お唄を下さったんです。さぁ引き返して、善導寺に急げとこう言う訳なんです。死んだ気で行けて、(笑い)ね、死んだ気ではげめ勤めよと、必ず道が開ける。
 必ず徳が受けられる、だけではない人も助かる、(?)が楽になるという御教えです。今日私が、ご神前で頂いた事、そしてここ霊神様の前で私が頂く事、それこそ「松の木ばかりが松じゃない、あなたも松の松のうち」だと、霊神様が私に励ましておられる、私がいよいよ本当に空しゅうなる事を、私がいよいよ死んだ気になる事を、求めておいでられる。私達の信心だけが信心じゃないぞと、お前自身が死ぬる事。
 その事が信心なのだと言うて下さっておるですね。ですから是はなら私が皆さんに、今皆さんでもそうです。親先生だけの信心が信心じゃない。皆さん自身が空しゅうなると云う事その事が信心なのだと。こげなん馬鹿らしかこたなか、死んだ気にならにゃんなんて、こげなきつかこたなかと思うけど決してそうじゃない。家庭の中ではんならばお母さんならば、お母さんを主人から、親から子供達から、もう絶対尊ばれる。
 この気でいきゃ。俺は大将だぞといばらんでもですもう絶対、それこそ大将に祭り上げて貰えれるおかげを、受けれる事を私は確信致します。そういう意味でです。今日は神を商法にしてはならんというのは、これは取次者だけの事ではない、信心させて頂く者が、言わば一生懸命の信心をせよと云う事。それは死んだ気で、一生懸命と言う事は、死んだ気でと云う事で御座います。
 私共がそれを、少しずつ死んで行く稽古をする、少しずつ空しゅうなって行く稽古をする。そこで今日一日、ひとつ一日戦死の積りでです。私はおかげを頂いて(?)。今日はもう自分は、もう死んでるんだと、だから例えば、ご仏壇から、色んな事しよったら皆まっかる訳ですね、見ゆるとは見ゆるばってんものは言われんでしょう。お位牌さんになった積りで、不平も言うまい、不足も言うまい、甘い辛いは勿論言うまい、そしてお前はどうしてそげな事かと言う事も、言わんで済む今日一日でありたい。
 そこから、例えば、私共が空しゅうなると云う事が、どの位尊い有難い事かと云う事を体験さして頂いて、一日戦死じゃない、今日も、明日も、明後日も、その行き方でいきゃ絶対徳が受けられる。という信心を身に付けて行きたい。「松の木ばかりが松じゃない、あなたも待つのも松のうち」である、あんたがたがそういう気になる事を、神様は待ち望んで居られる、そこに私共が尊ばれる、皆に大事にされる、いやそれは、そのまま神様に大事にされれる道が、そこから開けて来る訳ですね。
   どうぞ。